我が家の孫

誰かが台所で作業をしていると、歩き始めた時から近寄れば手元が見れる。
料理をつくっている姿を見せる、包丁という道具で食材を切って煮炊きをする一連の作業を見せるという行動はまさしく生きた食育の教育である。
身長が100センチになって、初めて見える台所の風景は少々遅いのかも知れない。
子どもが16歳の時につくった我が家だが、孫が一緒に生活するようになってもう4歳で包丁を使う。
2歳の次女は卵焼きの卵を溶く。
知らないうちに見て学んでいるのだと思う。

三つ子の魂は100まで

『三歳ごろまでに受けた教育によって形成された性質、性格は100歳になっても根底は変わらない』という意味だが、とても大切なことに気付かされた。

生きることは食べること、食事をつくることは生きる意味でとても大切なことで、その風景を当然のように見て育つということは、子どもの生きる魂を育てているのではないだろうか?

食育の視点からの家づくり

食育の根底は育てて収穫してそれを料理して頂くことだが、実にこの教育は生きるための最も大切な基盤となる教育であるはずである。
我が家の家庭菜園で出来たジャガイモを収穫して、土の中に埋まっていることを学ぶ。
赤くなったたトマトをちぎって食べる。
青いトマトも食べて美味しくないことを学ぶ。
今、魚の絵を書きなさいというと普通に切り身を書く子がいる。
妹の旦那が魚釣りが好きなので良く届く。
捌くのは私なので、孫たちは魚が形を変えて切り身になることを知っている。

何が出来る出来ないの話ではなく、今子供たちに見せておかないといけない風景を大切にして欲しい。
やはり包丁はないとないといけないし、コンビニに行けばすぐ揃う便利さには危険が隠れているはずである。

理想の家

家族が共に生きて成長して、大切な絆を深められる家が少なくなって来ているような気がする。
老後に孫の面倒をみるのはうんざりという方をたまに見る。
少しの時間だけという話を聞いたときに悲しい時代になってしまったのだと思う。

祖父母の愛をいっぱいもらった子どもはどこか穏やかで思いやりが深い。
おばあちゃん子だね、言われるのも決して悪い表現ではない。

個の自由だけを取るのではく、家族みんなが心も体も健康に成長して、笑顔の絶えない家にするために家の在り方の選択をする時代が来ているのではないだろうか?

我が家も三世代で住んでいるが選択の間違いはないと確信できる。